【食生活ダイアリー】母の日の思い出(6/14まで募集中)

2021-05-17 15:00 ひまわりネット事務局さん


5月の第2日曜日は、家事や仕事に毎日忙しいお母さんに感謝を伝える母の日でしたね。

改めて感謝の気持ちを伝えるのはちょっぴり照れくさいけれど、言われる側はとても嬉しいですよね☆


そこで今回は「母の日の思い出」を募集します!


自分が伝える側の時の思い出や、

母親になってお子さんから感謝の気持ちをもらった時の思い出など、

喜怒哀楽様々な思い出を教えて下さい!

6月14日まで募集しておりますので、みなさまからのご投稿をお待ちしております♪


ご投稿はコチラ!

⇒https://www.himawarinet.com/diary/

※食生活ダイアリーの特集テーマに投稿すると、15ポイントプレゼント☆

ふるってご参加ください。

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  • 河上輝久さん

     私の母
                   河上輝久
     大正六年十月六日、愛媛県周桑郡壬生川町新田(現西条市)男三人女三人の次女として母イチは生まれた。
     長男は第二次世界大戦で中国大陸で戦死、祖父の亡き後、次男と三男は共に家業の農業を支えた。長女は、壬生川町の職員に嫁ぎ、三女は西条市の小松町職員へ嫁いでいる。
     生家は山から移築した合掌造りの家で、大変立派な庭を抱えていた。敷地面積は千二百坪だった。民家とは思えない佇まいに、お寺のように思っていた人も多々いた。
     農地を六町歩を所有していた。又、昭和二十年代後半には、農閑期の冬場は海苔の養殖をしていた為に、夫婦で百五十万円以上の収入を得ていた。得にこの地でも裕福な家庭に入っていた。
     母の最終学歴は、高等小学校卒業だと聞いていた。だが、頭の良い女性には思わなかった。無能さを何度も父から叱責されていたのを記憶している。しかし、私が悪戯をすると、手厳しかった。白黒ハッキリさせるのが母の性癖だった為に、幼少の時から大変困った。
     結婚数年後、父は某大手繊維会社西条工場を退職した。しかし、その退職理由が何であったのかは定かではない。又、伯父や伯母の囂々たる反対に屈せずの事だったが、母は口にはださなかった。常に父には、戦前の女性特有の従順さを持っていた。
     退職後、畑違いのクリーニング業に手を伸ばす事になった。数年間の職人生活の後、昭和三十年の十月、売りに出ていたクリーニング店を購入して、大阪へ引っ越した。この時、母の兄から二百万円を借用していた。そして、三年後に返金し事を父の三回忌の時に聞かされた。
     慣れない都会生活に、母の地獄のような生活が始まった。都会の極端な狭い家、田舎人丸出しの訛りの強い言葉に、友達の出来ない母の心は苦しんでいた。
     「田舎へ帰りたい!」
     毎日のように父に涙を流しながら訴えていた。最初は、母の戯れ言を無視していた父も、何度も同じ事を言われると、我慢出来なくなった。怒った父は、時には母を殴るような事もしばしばあった。しかし、小学生の私は、布団の中で泣くだけしか出来なかった。だが、神様はその様な母を見捨てる事はなかった。一年も経つと母の顔に笑顔が戻った。
     母は眠る事を知らなかった。夜の十一時、十二時まで働いていた。どれ程遅く寝ても朝は六時には起床して、御飯の用意をするのが日課だった。その為、御飯を食べている時さえも、うたた寝を毎日の様にしていた。本当に母はよく働いていたと記憶している。
     父が肺癌で倒れた一年半も雨が降ろうと火が降ろうと、毎日のように病院へ介護に行っていた。
     ある日、
     「儂が亡くなった後、母さんを頼むぞ」
     父に言われた。この時まで、仲が良くないと思っていたが、私の思い違いだった。
     父の亡くなった後、何を思ったのか徒歩で十五分の老人福祉センターで俳句を始めた。駄作でもそれが母の生き甲斐となっていた。ボールペンとメモ用紙を持って、考え込んでいる姿が今も脳裏に甦ってくる。
     
      雀来て 花連翹に 首かしげ
    五月雨 庭ゆく猫の 歩みかな
    参宮の 人希にして 赤蜻蛉

     これは母が自画自賛していた三句だが、母の思いとは異なり、悲しい事だが投稿先からの入選報告は皆無だった。
     平成十四年十二月三十日、八十三歳の人生に終止符を打ったが、私が最も愛した人だった。

    2021-06-06 15:43[削除